要点!ライティングのキンドル独学


ライティングのキンドル独学の学習内容

「書くこと」こそゴール

どんな仕事をしていても、必ず何かの文章を書くということが求められます。音楽家や画家でもエッセイを書くなどの仕事があります。

その「書く作業中」は、何かの具体的作業の締めくくりとして発生することが多いです。例をあげてみましょう。

  • 問題発生時の調査報告・見解書
  • 出張作業の報告書
  • 実験報告書
  • 社内予算編成案の説明資料
  • 楽曲、アート作品の解説記事
  • ソフトウェアの開発資料
  • 技術開発の特許の文書
  • デザイン意匠の権利の文書
  • 学術研究の投稿論文
  • 経理・経営の決算資料

特定顧客に見せるもの、不特定多数に見せるもの、知的財産保護に関わるもの・・・いろいろな性格の文書があります。共通するのは「何かの仕事の完了の証」だということです。。

「文書を書く」ということが、ビジネスにおいて、必ず「何かのゴール」になっているのです。なぜならば「書面に残す」ということが、あらゆる文化圏で共通に認識された重要な手続きだからです。

したがって、書くことを直接の生業(ライターとか職業作家とか)とせずとも、何らかの生産に携わる誰もが、それなりのライティング能力を求められます。

つまり、ライティング能力こそ、キャリアアップにおいて最重要のスキルであると言ってよいです。

中世以降の「書くこと」の歴史

なぜ「書くこと」が重要という認識が世界共通見解であるのかを確認しましょう。

かつて、ヨーロッパ圏の職人ギルドでは、職人たちはあくまでも、手作業での職人仕事のみを行う存在でした。字の読み書きは最低限ができれば(請求書に数字と名前を埋めてつくれればいいくらい)よかったのです。

しかし15世紀に特許制度が始まると、状況が変わりました。いつの時代でも新しい発明を作るのは大変な苦労を伴います。「発明しておしまい」ではなく、「発明したものを継続して商売にしていく」というのが目的です。

そうなると、「自分の発明を守る」ために、職人達も権利化活動を積極的に行うようになりました。特許の出願と権利化手続きです。すなわち特許文書の作成です。

この変化により、職人が牧歌的に手作業だけを担う時代から、自分の発明権利を守るための「書く作業」によって「発明を完結させる」という役割も担うようになりました。特許では請求項の書き方次第で権利範囲が大きく変わってしまいます。職人達は何度も推敲を重ねて、練りに練った文書を解説図とともに作成するようになりました。まさしく「書くこと」がゴールになった転換点でした。

いまでこそ、プロ研究者による新型コロナウイルスの研究報告が、さまざまな医療研究ジャーナルにでて、連日ニュースにでています。このため、「専門的な文書は専門家だけが書くもの」という印象をもってしまうのもしかたありません(読み書きのための専門の訓練を積んだ学者・研究者が書く「論文」のための論文誌が出現したのは17世紀になってから)。しかし、そもそも「書くこと」は専門家だけのものではなかったのです。

話を戻しましょう。中世以降の歴史においては、特許制度の開始によって、「書くこと」がより広く求められるようになりました。17世紀以降の学者のような高度な専門家でなくても、皆が挑戦してきた普遍的な取り組み・・・それがライティングだったのです。

読者の中には、「書くのは苦手」と感じている人もいるでしょう。しかし、好むと好まざるとに関わらず、文書作成能力をきたえておくことが歴史的にも必須なのです。

原稿締切をまもる

まとまった量の文章を書いた経験はどのくらいあるでしょうか? たとえば大学で卒業論文をA4で50ページ、日本語の文字で埋めると、50,000-60,000文字です。

卒業論文なら所要時間はあまり気にせずゆっくりまとめても、年度末の締切までに間に合いますね。締切を強く意識しなくても大丈夫かもしれません(提出期限目前になってとりかかった場合は別として)。

どんな文書にも締切があります。ビジネスでは比較的短い期間・期限で締切が設定されます。大学研究者だって、研究の目処が立って投稿論文を出すとなればジャーナル編集部からの原稿締切と向き合わなければなりません。

締切は他者が設定する場合もありますし、自己設定することもあります。多くの場合は他者・自己の両方で複数の締切をもつでしょう。

たとえば、初稿がいつ、見直しがいつ、初回提出がいつ、再修正がいつ、最終提出がいつ・・・という具合です。初回提出と最終提出だけが他者から設定されて、初稿・見直し・再修正は自己設定というふうになるはずです。

問題となるのは「締切が設定されているなか、ある程度まとまった量の文章をわかりやすく書く」ということですね。

「読むこと」に偏重していた日本の国語教育

「小中学校の原稿用紙400字だって苦しかったのに、そんなの無理だから困ってんだよ!」と思うこともあるでしょう。

学校で「締切をまもりながら、まとまった論理的文章を書くための訓練」を積む場は提供されませんでした。日本の学校での「国語」の授業では、読むことに圧倒的比重がおかれているからです。学校の勉強として「書くこと」の訓練が不十分であるために、「書くこと」が苦手のままなのです。

国語の問題を思い出してみてください。「人物の心情」とか「筆者の意見」を汲み取ることが重要だったはずです。テストでの設問ではア~エの選択肢から選ぶ、というような形式です。

国語での題材は小説・論説・古典・漢文とありますが、基本的にはどれとこれも、読むということの一点張りです。テストで時々「百字で要約せよ」みたいのが出ますが、それもキーワードをつなぎあわせるだけです。下手に自分の意見など述べてしまえば、たちまち不正解になってしまいます。国語の「読むこと一点張り」がこうして小学校・中学校・高校まで続きます。

「読むこと」重視については歴史的な背景があります。19世紀後半の日本の近代化以降、西欧列強に追いつくことが重視されました。日本は列強に対して明確に後れをとっていたので、とにかく列強の文明文化を吸収していくことが第一でした。

自然科学、法律、医学を中心に西欧列強の考え方を日本に当てはめていくこと、が近代国家への早道だったわけです。オリジナリティは求められず、とにかく列強に肩をいち早く並べなければならなかった時代です。

言い換えれば「明確な正解が存在する」という時代でした。したがって、教育の制度・内容においても必然的に「読んで正解を導く訓練」が重要視されました。これが伝統的に続いてきて、今の学校教育に至ります。

いまや「正解が明確に存在した時代」ではありません。ある意見の解釈や選択肢も、ア~エの中から選ぶわけではありません。むしろ、ある課題を複数の視点で分析して言語化し、「自分で複数の選択肢を提示する」ということが求められています。

そのためには、とりあげる主題に対して、「ある視点ではこう、別の視点ではこう・・・と積み上げて、結論はこうである」という文章を書く訓練を繰り返し行わなければいけません。

でも、いまだに学校の作文はただの日記・随想のようなものに留まっています。どんなに学校の成績がよかったとしても、やり方の限界のせいで、多くの日本人はライティングが得意にならないのです。「学校の勉強は役に立たない」と言われる理由です。

「一問一答型のおしゃべり」という意志疎通の悪さ

「日本人は論理的思考が苦手」といわれることがあります。実際にその通りだと思います。

大きな原因としては「会話の質」そのものが普段から低いということがあげられます。会話にはいくつか種類があります。

  • おしゃべり(chat)
  • 対話(dialogue)
  • 議論(discussion)
  • 主張(argument)

論理的思考を扱う本などでは「日本人の意思疎通は対話のレベルに留まっていて、議論や主張のレベルにたどり着いていない」ということが言われます。とくにTOEFLの参考書などで厳しく指摘される点です。かずの実感としても、議論ができる人というのは、国内一流大学卒業者でも少ないように思います。

「一問一答」の例を考えましょう。たとえば「政府の新型コロナウイルス対策は満足していますか?」という質問にどう答えるでしょう?

「なんだか後手後手ですよね」くらいの答えだけする・・・というのが、鉄板ではないでしょうか。続けて「ワクチン打ったんですけど、まだどうなるか。はやく終息してほしいです」のようなものです。

これの何がいけないのか? と思われた場合こそ要注意。まさしく論理的と程遠いと言われてしまいます。

短い答えで納得・理解したように思えてしまうのは、「言外の常識」に強く依存しているからです。民族の多様性が極端に少なく、島国の農耕民族であるところの日本人にしかできないのです。そして、いまや日本人の間でさえ価値観が多様化し、「言外の常識」が機能しなくなってきています。したがって、「一問一答」にはまったく論理性がないのです。

そもそも日本人がTOEFLなどの本格的な語学試験で苦労するのは、語学知識ではなく、「一問一答」の癖の脱却を要求されるからなのです。

ふだん小さい頃からずっと「一問一答」の意思疎通だけに終始していては、総合的な論理的思考はきたえられなくて当然です。それどころか、論理的であることを「理屈っぽい」と敬遠する文化ですらあります。これでは日本人が論理的思考を苦手として当然です。

論理的思考が苦手な他方で、日本人はマンガ・アニメ・ゲームといったコンテンツを生み出していく競争力は強いです。他の追随を許さない水準です。「論理的思考が苦手」というのは「芸術的発想は得意」ということと表裏一体でもあります。一般の批評をネガに受け止めるべきではありません。

ただし「論理的思考が苦手」とか「論理的文章が書けない」という、現状そのものは認めましょう。

書くための「型」を身につける必要性

 欧米諸国ではどうなのか? という疑問があると思います。

米英のアングロサクソン圏に限らず、いろんな国や人種が混ざる狩猟民族をルーツとする欧米では、論理性こそが命です。論理的でないと、異民族の間での共通理解が不可能だからです。「言外の常識」などの情緒的なものは始めから存在しません。明確に話したことがすべてです。「説明責任(accountability)」という言葉の由来といえます。

そのため、欧米においての意思疎通とは、議論(discussion)と主張(argument)が基本とされます。幼い頃から学校でも家庭でも、徹底的にその手続き、やり方・・・すなわち「型」を体得します。

イギリスやアメリカでは高等教育を受けた人は特に、普段から主張・議論の仕方を心得ています。家庭でも子どもに論理的にものごとを諭し、時には難しいことばも使います。

言い換えればイギリスやアメリカの子どもたちは、最も身近な大人である親から直接に間接に、論理の「型」となる話の運び方、語の選び方を受け取っているといえます。時々ではなく、毎日の食卓で、何気ない日常で、あらゆる時に付いてきます。

たとえるなら川下りのようなものです。毎日毎日激しい川下りをしているうちに、ぶつからず転覆もしない、安全なボートの乗り方を体得するようなものです。

こうしてアメリカ、イギリスの家庭では、子どもが川下り式に論理性の「型」を幼児期から身につけているわけです。アメリカ、イギリスに限らず、広くヨーロッパ圏、西洋圏で一般的なことです。

そして欧米圏では学校教育でも「エッセイを書くこと」を重視します。つまりアメリカ人やイギリス人にとっての「国語」とは「書くこと」です(さすがに古典や外国語は『読むこと』が優先のようです)。初等中等教育では、エッセイ作成を徹底的に反復練習します。

結果的に欧米圏では「いい高校・いい大学」を出た人の論理性は抜群です。後天的に鍛え抜かれた能力です。そして、必ずしも学校の成績がよくない場合でも、徹底反復練習の効果で最低限を担保しています。これこそが「教育」であるという価値観もあるので、教師は専門職として尊敬もされ、賃金水準も高いわけです。

「うーん、アメリカ人やイギリス人が長い時間かけて徹底的に反復練習してようやく身につくものなのか・・・こりゃ、いまからできそうにないな・・・」とネガにとらえることはありません。

楽器演奏と同じように「型」を身につける

「型」は意識すれば短期間で身につけることはできます。

たとえば幼少のころからピアノを習って大人になっても続けている演奏家の人には、圧倒的な積み重ねという優位性があります。プロの演奏家として生計を立てることもできるでしょうり

一方で、大人になってからギターを始めて、近場の小さいステージで仲間とコンサートを時々やる人もいますね。

両者に程度の差はありますが、「人前で演奏できる」という点は同じです。楽器をやるのであれば、人前で演奏できるようになるのが当面の目標ですよね。経験量はもちろん大事ですが、大人になってから新しい楽器に親しむのだって大事なことのはずです。

たとえ話の「大人がギターをはじめる」というのをもう少し考えてみてください。

  • ギターのコード(弦の音の出し方)を覚える
  • 一小節ぶんのコードの連なりを知る
  • 一曲ぶんのコードの連なりを知る
  • 一曲まるまる通しでコードをひいてみる
  • つっかえる小節を反復練習する
  • 通しを速くひいていく
  • 上手な人に見てもらって、癖やできてないところを指摘してもらう
  • 仲間とセッションをしてみる
  • 人前で演奏する

ギターの場合は、このような練習をするはずです。大事なのが「一曲まるまる弾けるようにする」というものですね。忙しいなかで飽きないように楽しく感じるための工夫です。一小節ずつ完璧にするよりも、一曲をまず通していけるようにする。その中でコードをおぼえていくわけです。

ライティングも同じです。「一文一文を完璧にする」ということよりも、「一つの主題について書いてみる」ということをしないといけません。

楽器演奏が譜面とずれてしまうと曲にならないのと同じで、ライティングも主題を外さないように書いていきます。

ギターでただ同じ旋律だけ繰り返しても、曲として完成しません。単調なだけです。ライティングでも同様です。視点をなんどか変えて主題を取り扱うべきです。ここを一気に勢いで書いていかないと締切には間に合いません。

主題に対しての複数視点のもちかたには、鉄板のテクニックがあります。テクニックはキンドル本で押さえておくと、はやく「型」を身につけることができます。

そして一通り書けたら、推敲、つまり部分部分を見直します。これはギターで一曲ひいたあと、苦手なところだけ反復練習するのと同じことです。たとえばつぎのようなものです。

  • 誤字脱字の修正
  • 順序の入れ替え
  • 接続語の検討
  • 長い一文を二文にわける
  • 慣用句の使い方の確認
  • 例示の裏取り
  • 出典資料

かけた時間と丁寧さが、文章全体の論理の一貫性や明瞭さにつながります。

細かい作業にはいったところまでいけば、もうあとは自分の納得感と締切との相談だけです。

例としての出張報告書

文章を書く場というのはたくさんあります。ビジネスでは1000字くらいの報告書を書くのに慣れておくといいですね。

たとえば、出張報告書を書くとしましょう。

出張報告書を読む人は忙しいうえ、その報告書を読んで「次のアクション」を決めていきたいのです。そのために出張報告書に求められる論理性とか明瞭さとはどのようなものでしょう?

次のような構成が求められるはずです。間違っても「大変だった」というツイートのようなものは求められていません。感想文は有益ではありません。

  1. 出張に至った経緯
  2. 今回の出張の目的
  3. 出張先の意志決定者の意向
  4. 現地での議論、作業内容
  5. 出張先で残った課題
  6. いただいた要望事項
  7. 報告書まとめ
  8. 今後の予定

文章量としては、ツイッターの1ツイート150文字で各項目を書いても、8 x 150 = 1200字程度にすぐなってしまいます。

したがって、以下の二点を着実にこなせばいいでしょう

  • 主題に沿った章立てをつくる
  • 各章に明快に事実・意見を記述する

章立てにはかなり頭を悩ませる場合もあるし、鉄板の構成がある場合もあります。

キンドル本で章立ての「型」とか膨らませ方を心得ておくとよいです。章立てにかける時間を短縮できて、ストレスがずいぶん減ります。

出張報告書で明快に事実と意見を述べるためにはコツがあります。

  • 6W1Hをはっきりする
  • 「あるべき姿」の意見と、「いまの姿」の事実を分離して書く

そのほかの種類の文書でも、種類に応じてコツがあります。

キンドル本では、文書種類ごとにどのようなコツや「型」があるかを学べます。プロのライターや学者が書いたのではなく、等身大の人のコツを学ぶことにはリアリティがあります。キンドル本で身近にすぐ使えるノウハウを学びましょう。

キンドル独学のアウトプットの場は?

なにごとも「型」を身につけるだけでは十分ではありません。楽器でも格闘技でも「型」を身につけてからが本番です。もちろんライティングもです。

ブログ、SNS、媒体はなんでもよいので、仕事以外にも「自分の文章を不特定多数にみてもらう」ための場を普段からもちましょう。まとまった分量を書くのであれば、媒体としてはブログがよいでしょう。

さらに、ある程度こなれてきたら、「特定少数の人への文章の書き方」も練習していましょう。ブログであれば、ターゲットやマーケットを絞った記事をつくるということですね。マーケティングもセットで学ぶと効果的です。

型を身につけたら、あとは反復練習あるのみ!


まとめ

ここに